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いつもの夢

 ここ数年、同じ夢を時々見る。遠距離通学のため大学の近くに学生寮を確保し、普段は泊まらないんだけれど支払いと挨拶はしているという設定。リアルでもそうしたかったんだけど、もちろん金がなかった。それで夢に出てくるんだろう。4人部屋で2段ベッドが2つ。専有面積も最小、寮費も最安。食事は寮費に含まれず、予約制。この学生寮は貧しい学生であふれていて、いつも賑やかで暖かだった。「今年は4年生で卒論とかあるので、泊まることも多くなると思います。よろしくお願いします。」と挨拶する場面で夢は終わる。夜遅くまで実験してデータをとったり、夢の中ではなぜか理系の学生で化学を専攻している。
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コクリコ坂観ました

 テルーが海(うみ)を演じているみたいで慣れるまで戸惑いました。ノダメがお江を演じているように見えるのと似ていなくもありません。上質な作品です。貴重な時間を使って映画館に足を運ぶ価値はあります。主人公たちの出生年設定からいくと東京五輪直前にはせいぜい中学生のハズなんだけど高校生になっているあたりも、これは突っ込んじゃいけないんだろうと思わさせるものがありました。そんなことどうでもいいんです。
 私は朝鮮戦争終結の年(1953)に生まれたので、彼らより最大で3歳年下です。60年安保は小学校低学年。6年生の男子がテレビのニュースで見たデモのまねをして5列に並び、「アンポ ハンタイ キシ タオセ」と言いながらジグザグに廊下を練り歩いていました。アンポ遊びは早速禁止されましたが。
 進学した市立中学校は武山という200m程度の山の登り口の小高い丘の上にあり、教室の窓からはいつも相模湾が見えました。悪い頭で無理をしてようやく進学した横高には梁山泊のようなクラブハウスと足の踏み場もない生徒会室があり、バンカラの片鱗のかけら位なら残っていました。たしか、この時代にウチの高校では学園紛争が真っ盛り。当時講堂のステージ上にあった保守イデオロギーの象徴たるスタインウェイがつき落とされ、「骨折多数」で演奏不能になったとのこと。(これは長年保存されていて、大金を投じて修理したものが今音楽講堂で普通に使われています)
 私の父も船乗りでしたから、自分の少年の頃と(カッコ悪かったんだけど)重なりあう部分がとても多くて、懐かしくて涙が出て来ました。父も言っていましたが、日本統治時代、朝鮮沿岸航路を操船して海岸地形を知り尽くしている日本人の船長や航海士や船員が、民間人なのに朝鮮戦争の軍務に徴用に近い形で使われ、中には上陸用舟艇を操船して上陸作戦に参加した日本人船員もいたというのです。「戦死者」も出ています。日本にとっても重い歴史ですが朝鮮の人々にとっては、両軍がぶつかり合う前線が半島を1往復半したので、最悪の場合3度も戦場になり、一般市民の犠牲と損害ははかり知れず、大変な惨禍だったことを忘れてはいけないでしょう。あ、この話を幼い私に(まるで大人に話すかのように)してくれた父は、私が小6の時、北大西洋上で船内事故のため殉職しました。遺体は現地の外人墓地に埋葬され、実際には見ていないためか、今でも土産をたくさん持って不意に帰って来るんじゃないかと思ったりするのです。父の生き方、母の考え方も、私の中に生き続けているのを、年をとって最近強く感じます。
 1年で一番暑い日に、よい作品を見ました。私も信号旗を揚げたくなりました。
 

あの日もこんなでした

 激しい雷雨が上がって蝉がしきりに鳴いています。父の死で勉強しないと行く高校がないと知った私は初めて真剣に机に向かいました。天皇家の別荘がある葉山に続く地方道から民家1軒分だけ南に隔てた私の部屋は本当に静かでした。開業医の先生の診療所と一体になった古い民家に無料で住まわせていただき、その部屋もかつてお嬢様の部屋だったのです。生まれて初めて与えられた自分の部屋は、当時の庶民には信じられないほどの輝きに満ちていました。窓の外は隣家の庭先で、名は知りませんが大きな葉をつける樹木があって、秋にはその葉が地面に落ちる音が聞こえるくらい静かです。
 夏休みは快適な自室で勉強しました。エアコンは診察室にしかありませんが、なくても全然平気でした。湘南地方の夏は、最悪でもそんなに暑くはないのです。分かるまで、いくらでも納得のいくまで考え、整理し、覚えました。この中学3年間が、今の私を構成しました。あの日も机のすぐ前の窓を打つ雷雨も上がり、しきりに蝉が鳴いていましたっけ。
 自宅でいくらでも気の済むまで勉強する時間を、今年は夏休み中に計20日も確保しましたが、もう半分使ってしまいました。貴重な時間を無駄にしないよう、老骨にむち打って頑張ります。
 勉強の方法が分からず辛かったあの日に戻りたくはないけど、あの部屋には戻りたいですね。その建物は取り壊され,数軒の建売住宅になっていたのを確認して、少し驚きました。時は過ぎゆく!

あたりまえだの・・・

 屋上で夕焼けを見つめる管理職に「だいじょうぶですか」と心配して声をかける若い女性部下に対して、上司が「あたりまえだ あつこちゃん」と言うCFがありましたが、若い人はオリジナルを知っているだろうか。
 1960年代に「てなもんや三度笠」という時代劇バラエティー番組が毎週放映されていました。OPでいきなり殺陣があり、股旅すがたの藤田まことさんがゴロツキたちをやっつけた後、「俺がこんなに強いのも、あたりまえだのクラッカー」と手に持った商品を前につきだしながらキメ台詞を言うのです。スポンサーはクラッカーを得意とする前田製菓の一社提供でした。なお前田製菓のクラッカーは本当に安くて旨いです。
 当時の藤田まことさんは、年齢を重ねても必殺シリーズに見るようにステキな超一流の俳優さんですが、この頃は若くてカッコ良かったですねえ。歌も美声でお上手で、三度笠姿がよく似合いました。すでに故人となられたことが悔やまれます。
 全く勉強せず、漫画とテレビしか見ず、自ら何も考えようとせず、混沌とした意識しか持ち得なかった少年時代がフラッシュバックするCFです。まだ書いていない自分史では「混沌期」と命名している時期です。幼いころから努力家だったに違いない現任高の「教え子」の皆さんにはとうてい理解不能だと想像されるので、申し上げますが、意識を持って勉強することがない、流されている状態の子どもには、すべては年齢相応以上に混沌としていて、ワケが分からないものなのです。このような児童にどんな教育が最適かは充分には研究されていないような気がします。
 この状態ですと、小学校高学年でますます高度化する授業は全く理解できず、無気力と混沌が加速されるという悪魔のスパイラルに陥って、中1までに驚くべき低学力が完成します。しかもそれが思春期の入口付近でそうなる!人によってはグレるのは当たり前です。私は、グレませんでしたが、プラモ作りや電子工作に逃げ道を作りながら、低学力地獄の底で呻吟していました。この地獄の底から這い上がり、早稲田にも合格したし国立大学を卒業して先生になっちゃったという、実に希な幸運に恵まれた貴重な経験の持ち主です。この「混沌期」の経験は今教材作りに生かされています。

思えば遠くに

 横高のクラス会は幹事さんのご尽力で今も続いています。たしか新制第24期生でしたね。今日、最新の住所録をいただきました。今までのところ46人中判明した死亡者1。この年齢の集団としては平均値なのでしょうが、残念です。卒業後の彼がどんな人生を歩んで、どのように亡くなられたか知りたくも思いますが、皆それぞれがそうであるように、昭和40年代、50年代を懸命に駆け抜けた人生は、たぶんお互いによく似ているのだと思います。ただご冥福をお祈りするばかりです。
 横高時代と言えば、障害を得た母の朝食・昼食を用意して登校するので自分は朝食どころではなく、満員バスで行く三浦県道は、毎朝衣笠(きぬがさ)十字路手前で渋滞にはまり、バス停じゃないところで降ろしてもらって横高まで走ったりしました。いつもにも増してお腹をすかせて1時間目が始まるのでした。2時間目の休み時間には食堂が営業していて、本当に助かりました。神奈川県では定時制併設高の食堂は全日制の生徒にも販売してよいことになっているのです。
 冷房のない夏期講習で背中に汗が流れる感覚を今も覚えています。先生方も大変だったろうなと、自分がプロになった今、思いますが、教材も教授法も今はずっと進歩しています。全ての授業を液晶プロジェクターとパワーポイントを駆使したプレゼン授業で進める理由のひとつは、やはり自分自身が生徒だったころの「こんな授業が受けたかった」という願望ですね。横高と同じく、旧制時代以来の伝統ある高校(府立第6高女)の年齢の割に大人びた生徒諸君の前で授業していると、教卓の向こう側にいた頃を思い出します。女子は特に優秀です。横高もそうでしたね。
 久々に横高の3年間クラス替えのなかった、あの6組の雰囲気を思い出しました。3年間も毎日顔を合わせていた、まるで親戚みたいな仲間たちの健闘を祈るばかりです。とりあえず定年まで頑張ろう。
 ご同輩の諸君、人間ドックだけは行っておこう。私は職場の集団検診は全部パス。自分が信頼する病院で自分の負担で納得のいくまで検査を受けています。胃ファイヴァー検査は2回に1回は組織培養になります。危ない危ない。
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鈴木先生

Author:鈴木先生
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